コラム16 『歯医者でアニマルウェルフェアを考える』

 [酪総研コラム16ー2024年5月掲載]


歯医者でアニマルウェルフェアを考える


 最近、やたらと歯が染みるため数年ぶりに歯医者を訪れた。診察の結果、奥歯の神経を抜くことになったのだが、私は歯医者が苦手だ。歯を削る際に使うハンドピースと呼ばれるドリルは、高速回転させると「キーン」という独特の高音が出る。医者から「少しチクッとしますよ」と言われ麻酔をされる。数分で麻酔が効き、痛みを全く感じなくなる。暫くするとハンドピースの音が鳴りやんで「終わりました」と声を掛けられ治療が終わる。痛みや苦痛を感じないことにホッと胸を撫でおろしたのと同時に、麻酔の偉大さを感じた出来事であった。

 麻酔の無い時代には、医師や助手は患者を抑えつけて治療をしていたそうだ。中にはその激痛に耐えきれず意識を無くす患者もいたらしい。局所麻酔は日本では1887年(明治20年)頃に使用され始めた。今からわずか137年前の出来事である。当時の人々に思いを馳せてみたい。待合室で声にもならないような悲痛な叫び声が聞こえ、思わず耳を塞ぎたくなるかもしれない。あるいは数分後に訪れる激痛の恐怖に耐えられずその場から逃げ出すかもしれない。人間が「苦痛や恐怖から解放されたい」と願うのはいつの時代も普遍的なものなのだと思い知らされる。

 先日、とある会議でアニマルウェルフェア(以下、AWと表記)についての講演会があった。AWでは家畜に対して「5つの自由(※1)」 の確保が求められている(①飢え・渇き及び栄養不良からの自由、②恐怖及び苦悩からの自由、③身体的及び熱の不快からの自由、④苦痛・傷害及び疾病からの自由、⑤通常の行動様式を発現する自由)。今後、AWの世界的な潮流から日本においても対応が避けられないだろうと聞いても、コストUPが頭をよぎったり、心理的ハードルが高くなったりと身構えてしまう経営者も多いのではないだろうか。 コスト面を考えると、現状の酪農経営+αで新たに何か環境整備に投資しなければならなくなるかもしれない。心理的ハードルでは、今までの飼養方法を変更しなくてはならないかもしれないし、ポジティブリスト制度のように詳細な記帳記録を余儀なくされるかもしれないと心配が尽きない。このようなことから、AWに対してのハードルが高くなってしまい、最初の一歩が進めない経営者も少なくないのではないだろうか。

 AWに対応した環境整備や記帳記録は今後の業界の動きに対応するしかないが、心理的ハードルについて考えてみると、AWを平たく言うと「牛と人が無理なく関係を続けていける所で折合いを付ける」ということである。実はとてもシンプルかつ明確で、牛の視点に立っていかに環境を整えるかがカギである。「きれいな水を確保できているか」「放牧地に日陰はあるか」など小さな気遣いの積み上げなのである。現場をよく熟知し、理解している生産者は、きっと以前から「適切なAWとは何か」を理解し、対応しているはずだ。

 そして、人間に限らず牛も「苦痛や恐怖から解放されたい」という思いは同じである。そう考えるとAWの取組みにあたっての心理的ハードルは実は思ったよりも低いのかもしれない。


 昨年、島根県のある牧場で牛を殴る蹴るといった動画が拡散され、動物愛護法違反で元従業員が起訴された。今年3月には茨城県の乳牛飼養施設で不適切な胃液採取が問題視され警察が告発を受理した。勿論これらの行為は許されるべき行為ではない。痛がっている、苦しんでいる様子を「所詮動物だから・・・」と割り切る考え方はある意味とても恐ろしい。私が牛なら一刻も早くその場から逃げだしてしまいたいだろう。牛も人間と同じく痛み、苦しみ、悲しみを感じる生き物であることを忘れてはならない。

今から70年前の1954年に出版され、その後再版されたキーニィの『牛飼いの哲学(※2)』の中には次のような内容が記されている。『 私たちはあなたの乳牛です 私たちは あなたの くださるものを食べ 飲ましてくださるものを飲み 住ましてくださるところに 住みます よい牛にもなれば 悪い牛にもなります 丈夫にもなれば 弱くもなり 気持よく暮らすこともできれば 不愉快にもなります このように 私たちの運命は 酪農家まかせなのです 』

 「牛達の気持ち」に寄り添うことが出来なければ、人間と牛に未来はない。しかし逆を言えば、両者が今よりも幸福な未来を享受することも出来るはず。この哲学は昔と変わらず今を生きる私たちへもエッセンスを伝えてくれているのではないだろうか。牛が苦痛や恐怖から解放され、牛が牛らしく、人間と共に幸せに生きられる社会が実現できることを切に願いたい。キーニィの言葉は、今を生きる私たちの心に静かに問いかけている。


※1 出典:農林水産省Webサイト

     (https://www.maff.go.jp/j/chikusan/sinko/attach/pdf/animal_welfare-16.pdf

※2 出典:マーク・H. キーニィ著.酪農家キーニィの牛飼い哲学.デーリィマン社.2015

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