コラム24 『令和の米騒動を見て想う』
[酪総研コラム24ー2025年8月掲載]
『令和の米騒動を見て想う』
ある日テレビを見ていたら米を買い求めて長い行列ができているのが映った。どこの国のことかと思ったら日本じゃないか。物資の無い時代でもあるまいに、今の日本で米を買うために行列ができるなんて何かが間違っている。
日本人にとって米は食生活の中心にあり生活に欠かせない存在で、神話の時代から受け継がれた神聖な作物である。日本の文化・信仰、日本人の精神と深くつながる存在である。主食であるばかりではなく、江戸時代までは米は経済の中心であった。かつては米が不足したり価格高騰したりすると米騒動や打ちこわし、政権交代までも起きた。大正時代になってからでも価格が高騰したことで米騒動が起きた。
コメ不足や価格高騰が日本人の激しい怒りを買うということに対して、今の政府・農水省は極めて無頓着であったために、現代版米騒動は起きるべくして起きたのだと思う。私は、米の問題は経済や農政問題としての理解以上に、精神文化をなおざりにしたため起きたのだと理解するほうが分かりやすいのではないかと感じている。
10年ほど前のことになるが、小売店の棚からバターが無くなり、社会問題となったことがあった。統計データを分析してみると、これにはいろいろな要素が絡み合っているとはいえ、供給量が減少したことで業務用国産バターの販売制限があり、そのしわ寄せが家庭用バターに及んだ、つまり小売店での不足の主因は、瞬間的に家庭用バターの販売量が急増して流通量・流通在庫が減ったことによると考えられた。
昨年から米でも同じようなことが起きたのだろう。消費者は、現状では不足感がなくても今後不足するかもしれないという情報を得ると、まだ余裕があるにも関わらず店頭にあるなら買っておいたほうが無難だという意識が強くなる。このことは消費者心理として理解できないこともないが、その結果として一瞬で流通量・流通在庫の不足が起き、昨年夏には店頭で欠品し、更には価格が高騰したのだ(投機目的で買いだめや売り惜しみ、転売目的の業者の存在も噂されてはいるが…)。実際に、農水省が公表している「スーパーでの販売数量・価格の推移」を見ると、昨年8月に販売量が急増し、その頃から価格が上昇し始めていることが分かる。
巷では族議員が悪い、農協が悪いという論調を多く目にするが、いくらそれを言っても米の生産量は増えないし価格は下がらない。やはり日本の農業政策が改革されないと変わらない。
2年ほど前から、農水省で「適正な価格形成に関する協議会」が開催されている。これまでに豆腐・納豆、飲用牛乳、米、野菜について、持続可能な食料供給のために適正価格での取引が必要であると議論された。適正価格での取引と言うが、生産者から見た適正価格と消費者から見た適正価格は違うだろう。生産者はより高く売りたい、消費者はより安く買いたいと思うのが性(さが)だ。そもそも、国が価格をコントロールしようとすることに無理がある。今回の米騒動を通じて国が需給をコントロールできないことも明らかになった。だからこそ、需給によって市場で価格が形成されるというあたりまえの状況を容認し、その上で、生産者の所得と消費者にとっての適正価格を実現するようなするような食料・農業政策を構築することが本来の姿ではないか。私は、稲作でも酪農でも生産者が価格維持や在庫調整のために生産調整をしていることや、農水省の方針に沿った生産者の自助努力に対して一部補助金が交付されるというような現状の農業政策では、生産者所得の確保と消費者に理解される適正価格での取引は望めないと思う。消費者が購入価格で農業者を支えるのには自ずと限界があるし、生産者は消費者の思う適正価格では持続的再生産が難しい。
では、生産者と消費者ともに納得できる状況を作り出す農政とは如何にあるべきか、今まさに、既存の政策をゼロベースで問い直す時が来ているでしょ?と思うのだが…。