コラム27 『“もっと出す”の先に見えるもの』
[酪総研コラム27ー2025年12月掲載]
『“もっと出す”の先に見えるもの』
人は、乳牛に「もっと出す」ことを求め続けてきた。
その結果、牛は驚くほどの進化を遂げた。
かつて、乳牛の1日あたりの乳量は10リットルもあれば立派なものだった。それが今や、1泌乳期に1万リットルを超える牛が珍しくない。わずか数十年の間に乳量は3倍。ゲノム選抜、人工授精、受精卵移植、分子マーカー解析――人間は技術の力で、牛を「もっと出す存在」へと作り変えてきた。
人間は“もっと出す”ことを正義と信じてきた。けれど、そこに牛の意思はあるのだろうか。乳量を上げれば繁殖成績が下がり、脚や代謝のトラブルが増える。まるで、常に限界まで走り続けるレーシングマシンのようだ。速度を上げれば負荷が増し、無理をすれば容易に壊れる。それでも人間は言う。「あと少し、まだいけるはずだ」と。数字とグラフの向こうで、牛たちは静かにため息をついているのかもしれない。
そして忘れてはならないのが「淘汰」の側面だ。能力が高い個体だけを選び、低能力の牛は市場から排除されてきた。これは単なる「選抜」ではなく、経済原理による冷徹な取捨選択でもある。
飼養コストに見合わない個体は繁殖目的から外れ、早期に淘汰される。牛たちにとっては、能力がなければ“居場所”を失う厳しい現実だ。人間の「効率化」は同時に、低能力牛の運命を決める力でもあったのだ。
人間の社会では「多様性」が時代のキーワードになった。性別も国籍も個性も尊重しようという動きが広がっている。しかし、経済動物である乳牛の世界に“多様性”はあるのだろうか。
乳量が多い個体、効率のよい個体、扱いやすい個体――そうした“標準”だけが生き残り、少しでも外れた性質を持つ牛は淘汰の対象となる。本来、生き物の世界にはさまざまな個体差や個性があって当然なのに、私たちはそれを「ばらつき」と呼び、排除してきた。
人間の価値観では多様性を尊びながら、自らが管理する動物には“均一性”を強いる――。そして、その“矛盾”を覆い隠すかのように登場したのが、アニマルウェルフェアという言葉である。
私たちは「アニマルウェルフェア」という言葉を掲げ、動物の福祉に配慮しているつもりでいる。だがそれは、ときに生産効率を維持するための“隠れ蓑”になっていないだろうか。
快適さやストレスの軽減をうたう一方で、牛の生き方そのものは、依然として人間の都合の中に閉じ込められている。「福祉」とは誰のためのものか――そう問い直すとき、私たちはようやく、感情ではなく科学の目で、家畜との“距離”を見直すことができるのかもしれない。
もっとも、人間は単に欲望のままに牛を改良してきたわけではない。牛がその能力を十分に発揮できるよう、飼養管理や栄養設計、繁殖技術を磨き続けてきた。そこには、命と向き合う知恵や努力の積み重ねがあった。
人間と牛は、対立ではなく“共進化”してきた存在ともいえる。だが、私たちの理解の光が届く範囲は、まだごく限られている。
問題は、私たちの技術が牛の健全な生理と飼養の現実に、どこまで即しているか――その一点に尽きる。もし人間の進化が、牛の生理的な限界や現場の実情と乖離していくのだとすれば、それはもはや「改良」ではなく「改変」と呼ぶべきなのかもしれない。
そして、私たちが“理解している”と思っていることも、実はその一部にすぎない。人間は乳牛の能力を「十分に引き出してきた」と言えるのだろうか。確かに、飼養管理や繁殖技術は進歩し、乳量も飛躍的に増えた。しかし、牛の“エンジン”とも言える第一胃(ルーメン)ひとつをとっても、その中に棲む微生物の約8割は、名前も役割もまだ分かっていないと言われている。
つまり、私たちは牛の生理を「制御」しているようでいて、その根幹を「理解」しているわけではない。見えない微生物たちが織りなす代謝のネットワークの上で、私たちの“理解”は、その広大な構造のごく表層にすぎないのかもしれない。
それでも私たちは、「能力を引き出す」ことを進歩と信じてきた。だが、もしその理解が未完成のままであるなら、果たして“引き出している”のか、“いじっている”だけなのか――。
近年では、ゲノム編集技術までが射程に入った。乳量だけでなく、暑さへの耐性や飼料効率、メタン排出まで、人間が自在に“設計”しようとしている。「持続可能性」という立派な看板を掲げながら、牛の設計図そのものを書き換える――それは、サステナブルという名の身勝手さに見えなくもない。
もちろん、乳量の向上が悪いわけではない。それによって多くの人が栄養を得、酪農が社会を支えてきたのも事実だ。だが、問うべきは「どこまで伸ばすか」ではなく、「どこで立ち止まるか」ではないだろうか。
牛は機械ではなく、生き物である。乳房炎、蹄病、代謝障害――その一つひとつが、無言の“限界のサイン”かもしれない。それを「管理」と呼ぶか、「酷使」と呼ぶかは、私たち次第だ。
乳牛は経済動物であり、その運命から逃れることはできない。それでも、私たちはその命によって生かされている。だからこそ、効率や数字の先に――静かな感謝を忘れてはならない。
乳牛の能力は、まだ伸びるかもしれない。だが、それを伸ばす人間の欲望は、どこまで許されるのだろう。問われているのは、牛の限界ではなく――私たち人間の良識そのものではないだろうか。
(コラム執筆:野﨑則彦)